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【建築】ル・コルビュジエ 国立西洋美術館世界遺産決定!建築作品画像!コルビュジエとは?その理念と関連書籍!

最終更新:2016年10月23日
東京・上野のル・コルビュジエが設計した「国立西洋美術館」の世界遺産登録が決まり、日本の世界遺産は20件目となりました。コルビュジエの略歴と今回世界遺産となる17建築中12作品の画像と解説、関連本・書籍をご紹介します!

ル・コルビュジエは1887年スイスに生まれ、フランク・ロイド・ライト、ミース・ファン・デル・ローエと共に「近代建築の三大巨匠」として、モダニズム建築の確立、それに伴う都市計画にも携わり、その後のポストモダン建築・現代建築家にも繋がる大きな功績を残しました。

また、コルビュジエは家具のデザイン、雑誌編集者、詩人、画家、彫刻家としても活躍し、溢れる才能を遺憾なく発揮した人物でもあります。

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【目次】

ル・コルビュジエとは?~その足跡と哲学

本名:シャルル=エドゥアール・ジャンヌレ=グリ

スイスの時計文字盤職人の家庭に産まれたコルビュジエ。

家業を継ぐために装飾美術学校で彫刻と彫金を学ぶものの、コルビュジエの才を見出した校長の進言により、建築の世界へ転身。

1908年パリで鉄筋コンクリート建築のパイオニア、オーギュスト・ペレ事務所へ。1910年にドイツ工作連盟の中心人物であったペーター・ベーレンスの事務所にそれぞれ短期間、籍を置き、専門的な高等教育を受けずに、実学として建築センスと技術を磨く。

こののち、コルビュジエはイタリア、ギリシャ、トルコ、東欧を渡り歩き、スイス、ラ・ショー=ド=フォンの美術学校で講師をする傍ら、1914年、鉄筋コンクリートの建築工法「ドミノシステム」を発表。

スイスからフランスへ居を移したコルビュジエは1920年、詩人、画家の友人らと共に『レスプリヌーヴォー』を創刊。この頃にペンネームとして、ル・コルビュジエを名乗る。

自らの雑誌連載から書籍化した『建築を目指して』を上梓し、本作文中の「住宅は住むための機械である」という言葉は、コルビュジエの建築思想の根幹を成し、多くの若き建築家達にも影響を与えた。

1925年のパリ万博では、装飾をメインにしたアールデコ建築のパビリオンが立ち並ぶ中、無機質でシンプルな「レスプリヌーヴォー館」を設計し、コルビュジエらしさを世界に体現。

その後、都市計画にも携わり「輝く都市」等、旧来の密集した低層住宅街ではなく、超高層ビルの周囲に緑地を作る計画案を発表し、実現はしなかったものの、その合理的な都市計画は、現代に息づいている。

1928年にはCIAM(近代建築国際会議)の中心メンバーとして、世界に名を馳せ「近代建築五原則」(ピロティ、屋上庭園、自由な平面、水平連続窓、自由な立面)を提唱する等、鉄筋コンクリート工法ならではの理論に基づいた作品を多く設計し、一段と脚光を浴びた。

彼が居を構えたフランスにも、徐々に第二次大戦の暗い影が忍び寄り、ドイツに協力的なコルビュジエに対し、長らく苦楽を共にしてきたピエール・ジャンヌレはレジスタンスに参加し、袂を分かつ。

大戦後は、持論のドミノシステムの実践、各国主要建築物の設計、インド新興都市の都市計画等、精力的に活動し、戦後復興と共に多くの作品を世に送り出した。盟友ジャンヌレとも戦後共同製作に関わる。

晩年には「ロンシャンの礼拝堂」「ラ・トゥーレ修道院」カトリック教会の設計にも携わり、日本の国立西洋美術館は、この頃に基本設計されている。

1965年、南仏、カップ・マルタンで海水浴中に死去。享年78歳。

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ル・コルビュジエ 世界遺産登録決定17建築作品中12作品紹介

国立西洋美術館 Musée National des Beaux-Arts de l'Occident, Taito-Ku, Tokyo, 1955

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(外観・正面)

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(外観・正面)

国立西洋美術館は印象派など19世紀から20世紀前半の絵画・彫刻を中心とする松方コレクションを基として、1959年(昭和34年)に設立された。実業家松方幸次郎は20世紀初めにフランスで多くの美術品を収集したが、コレクションは第二次世界大戦後、フランス政府により敵国資産として差し押さえられていた。松方コレクションが日本に返還(一部名画は未返還)される際の条件として、国立西洋美術館が建設されることになった。
本館の設計はル・コルビュジエによるが、彼の弟子である前川國男・坂倉準三・吉阪隆正が実施設計・監理に協力し完成した。なお新館は前川國男(前川國男建築設計事務所)が設計した。
本館は、1998年(平成10年)に旧建設省による公共建築百選に選定。2003年にはDOCOMOMO JAPAN選定 日本におけるモダン・ムーブメントの建築に選定され、2007年(平成19年)には「国立西洋美術館本館」として国の重要文化財に指定された。また、前庭・園地は、2009年(平成21年)に「国立西洋美術館園地」として国の登録記念物(名勝地関係)に登録されている。
現在は松方コレクションに加えてルネサンス期より20世紀初頭までの西洋絵画・彫刻作品の購入を進め、常設展示している。なかでも西洋のオールド・マスター(18世紀以前の画家)たちの作品を見ることができる美術館として、日本有数の存在である。「西美(せいび)」の略称で呼ばれることもある。

(引用:Wikipedia)

ラロッシュ=ジャンヌレ邸 Villa Jeanneret-Perret 1923

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(南西外観)
Maisons La Roche-Jeanneret
(内観)

ジャンヌレ=ペレ邸(ジャンヌレ=ペレてい、Villa Jeanneret-Perret)またはジャンヌレ邸(ジャンヌレてい、Villa Jeanneret)は、ル・コルビュジエが独立した建築家として最初に手がけた作品である。その外観から「白い家」(la Maison blanche) とも呼ばれるこの邸宅は、彼の出生地であるラ・ショー=ド=フォンに1912年に建てられたもので、元々は両親のために建てられたものであった[1]。
私邸として使われ続けたが、2005年に一般公開され、その後、フランスの世界遺産暫定リスト記載物件であり、6か国での共同推薦が行われた「ル・コルビュジエの建築作品 - 近代建築運動への顕著な貢献 -」の構成資産にも含められた。

(引用:Wikipedia)

カップ・マルタンの休暇小屋 Cabanon de Le Corbusier, Roquebrune-Cap-Martin 1952

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(外観)

Le Corbusier /// Le Petit Cabanon /// Roquebrune-Cap-Martin, France /// 1949-1952
(内観)

コルビュジエが夫人のために、南フランスカップ=マルタンの海辺に1952年に建築され、晩年を過ごした自身の居住用の邸宅。
モダニズム建築の旗手として、多くのコンクリート建築に関わったコルビュジエ作品とは思えない、丸太組の小さな家で、著書『小さな家』にもある快適な生活のための必要最小限のスペースという、建築の大家になる前の拘りを体現。

サヴォア邸 Villa Savoye et loge du jardinier, Poissy, 1928

サヴォア邸
(外観)
サヴォア邸内部02
(内観)

サヴォア邸では、ピロティ、屋上庭園、自由な平面、独立骨組みによる水平連続窓、自由な立面からなる近代建築の五原則のすべてが、高い完成度で実現されている。平面の中央には緩やかなスロープが設けられ、1階と2階を連続的に繋いでシークエンスを形成している。もとは別荘としての一般住宅であった。
サヴォア邸はモダニズム以前の装飾的で重厚な西洋的伝統建築とは大きく異なり、空間を大胆に使ったことで、当時の建築家たちに大きな衝撃を与えた。ドミノクラブと柱とスラブで支えており、梁は存在しない。ピロティを使うことにより、居住部分がまるで空中に浮かんでいるかのような印象を与え、水平連続窓はたっぷりと光を取り込むことで室内を明るくし透明感を与える。水平連続窓は室内を明るくするだけでなく、時間とともに移り変わる日光の色が室内に映えるようにも設計されている。また、素材には、当時では新しい素材であった鉄筋コンクリートを使用している。
屋上庭園は外から中が見えないように設計されており、プライバシーが確保されるように設計されている。また、バスルームや螺旋階段など、ところどころで曲線が使われており、ゆったりとした印象を与える。建物全体には灰色、白、黒、青、橙などの色が使われ、絶妙な色合いになっている。

(引用:Wikipedia)

ペサックの集合住宅 Cité Frugès, Pessac, 1924

Maison type zig-zag [1924]- cité Frugès (Pessac)

ペサックの集合住宅 (Cité Frugès, Pessac, 1924) は、ボルドー近郊のペサックに実現した集合住宅である。シテ・フリュジェ (Cité Frugès) やフリュジェ近代街区 (Quartiers Modernes Frugès) などとも呼ばれる。1924年に、製糖工場の経営者であり、ル・コルビュジエの著作『建築をめざして』に共感していたアンリ・フリュジェの要請で建設された。フリュジェは工場労働者向けの住宅を多く建てることを望み、ル・コルビュジエはその建設に当たってシトロアン住宅の理念などにも通底していたテイラー主義的様式を適用した。箱型住宅は、側面上部に突き出た階段がアクセントとなっている。それは幾何学的デザインに人の動きを暗示する要素を加えて外観の変化を生み出そうとする試みであり、ル・コルビュジエの初期の構想にしばしば見られるものである。ル・コルビュジエはスケッチなどに箱型住宅が並ぶ都市景観を描くことがあったが、ペサックの集合住宅はそれを実現させた稀有な例である。もっとも、ペサックには当初135戸が建設される予定だったが、実際には46戸にとどまった。景観に対する保守的な考えを持つ人々の干渉があったことや、現地の業者を起用しないことによる摩擦などによって、水道がなかなか整備されないなどのトラブルがあったのである。また、ル・コルビュジエのこだわりによって建設費も大きく跳ね上がり、労働者住宅としては不適切な入居費になるなどして、実際に労働者が住む住宅街になるのには、賃料について配慮したルシュール法(1929年)の成立を待つ必要があった。
人が実際に住むようになると、住民たちによってボルドー一帯に特有の屋根などを付け加えようとする動きも多年にわたって続いたが、現在は当初の姿に復元されている。2009年の推薦時には「規格住宅」に分類されていた。

(引用:Wikipedia)

ロンシャンの礼拝堂 Chapelle Notre-Dame-du-Haut, Ronchamp, 1950

The Chapel of Notre Dame du Haut, Ronchamp / Le Corbusier

Chapelle Notre-Dame du Haut

ロンシャンの礼拝堂 (Chapelle Notre-Dame-du-Haut, Ronchamp, 1950) は、1950年から1955年にオート=ソーヌ県ロンシャンに建てられた礼拝堂で、「ノートルダム=デュ=オー礼拝堂」が正式名である。ロンシャンの小高い丘は古来神聖な場所されていて、以前は教会が建てられていた。その教会が第二次世界大戦で破壊されたことから、聖職者アラン・クチュリエの依頼で、ル・コルビュジエが新しい礼拝堂を建てることになった。ル・コルビュジエが実現した礼拝堂は、カニの甲羅をモチーフにしたと自身が述べた屋根に見られるように、以前の「透明な箱」がらは隔たった造形をしている。しかし、それらにはミサを行う場としての音響効果を考慮した凹んだ壁面や、高地で水の確保が重要であることから雨水を溜められるように中央が落ち込んでいる天井など、機能性を織り込んだ結果も含まれている。また、内部の採光には、闇を効果的に使ったジャウル邸の空間に通底する要素が指摘され、壁面に以前の教会の瓦礫を活用していることは、ドミノシステムの理念にもつながると指摘されている。
後期の最高傑作と目される建物である一方、建設当初はその特異なデザインについて否定的評価も受けた。しかし、どちらの立場からも何故そう言えるのかについて、具体的な根拠が十分に示されてきたとは言いがたく、むしろそのような得体の知れない問いかけを見る者に投げかけること自体に、傑作としての価値を認める見解もある。建築家の槇文彦が解釈を示した時にも、謎のままであり続けることへの期待感が併せて示されていた。2009年の推薦時には「宗教建築」に分類されていた[37]。2011年の推薦時には、前述の通り、ICOMOSから世界遺産基準 (1) について「顕著な普遍的価値」を認めうると指摘された。

(引用:Wikipedia)

ラ・トゥーレットの修道院 Couvent Sainte-Marie-de-la-Tourette, Eveux, 1953

Couvent Sainte Marie de la Tourette

Couvent Sainte Marie de la Tourette

ラ・トゥーレットの修道院 (Couvent Sainte-Marie-de-la-Tourette, Eveux, 1953) は、ローヌ県のエヴー (Eveux) に建設された修道院で、正式には「サント=マリー=ド=ラ=トゥーレット修道院」という。ドミニコ会の神学生のために建てられたもので、ロンシャンの礼拝堂と同じく、アラン・クチュリエの推薦によって実現した。大型建築としては唯一、ル・コルビュジエの構想が何の修正や反対も受けずに実現した修道院である。予算的な制約から仕上げなどは省略されたが、意図的に斜面に建設し、最上階の修道士向けの個室に開放性を、半地下の礼拝堂に閉鎖性を持たせるなど、空間設計に工夫が凝らされている。ことに礼拝堂は、天井の彩色された三本の円筒から差し込む光が、闇の中で原色の壁を効果的に照らし、見る者の本能に訴えかける光景を実現している。

(引用:Wikipedia)

マルセイユのユニテ・ダビタシオン Unité d'habitation, Marseille, 1945

Unite d'habitation, Berlin

マルセイユのユニテ・ダビタシオン (Unité d'habitation, Marseille, 1945) は、第二次世界大戦後の復興期に建てられた集合住宅である。ユニテ・ダビタシオンの住居部分の基本構造は、3階分を1つの単位としてL字型と逆L字型を組み合わせ、その間に廊下を挟むものである。
マルセイユのユニテは本来4棟建てられる予定だったが、実際には1棟しか建てられることはなかった。結果として、広大な緑地に4棟のユニテが点在してそびえるという彼のイメージは実現しなかったが、それでもその評価は高く、他の都市にもユニテ・ダビタシオンは建てられた。しかし、後続のユニテはいずれも簡略化された要素を含み、マルセイユのユニテが最高傑作とされる。のみならず、ル・コルビュジエ作品全体の中でも、これを最高傑作と位置づける者たちが多くいる。2009年の推薦時には「集合住宅」に分類されていた[37]。2011年の推薦時には、前述の通り、ICOMOSから世界遺産基準 (2) と (6) について「顕著な普遍的価値」を認めうると指摘された。

チャンディーガル インド

議事堂

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裁判所

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チャンディーガルはインドのパンジャブ州の都市で、パキスタンの分離独立に伴って、以前の州都ラホールにかわって州都となった。しかし、当初はほとんど何もない状態で、ル・コルビュジエはインド高官の依頼で都市全体の計画を策定した。ル・コルビュジエは、格子状の規則正しい区画に商業地区、行政地区などを配置し、前者ではドミノ様式の建物を並べ、後者では傑作として評価される建物、特にアーチ状の空隙を持つ屋根とブリーズ・ソレイユが特徴的な高等裁判所、独特の形状の庇を持つ議事堂などを建設した。特に行政築の建造物群が高く評価される一方、あまりにも合理性を重視しすぎる都市計画には批判も寄せられ、「失敗作」という酷評すら存在する。逆に、ル・コルビュジエ自身にとっても、制約や反対によって実現できなかった要素が多く、自身の手がけた都市としての不満も表明していた。とはいえ、チャンディーガルは彼が数多く構想した都市計画の中で唯一実現したものであり、2009年の推薦案の段階では「公共建築」に分類されていた。
前述の通り、正式推薦を前に辞退となったが、2016年審議に向けた推薦で復活した。

(引用:Wikipedia)

レマン湖畔の小さな家 Petite villa au bord du lac Léman, Corseaux, 1923 スイス

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レマン湖畔の小さな家 (Petite villa au bord du lac Léman, Corseaux, 1923) は、ル・コルビュジエが1923年から1924年にかけて両親のために建てた名前どおりの「小さな家」で、長さは20 m、幅は3 m である。コンパクトな室内で快適に過ごせるように、室内の家具の配置などにも配慮され、来客時にベッドを隠せる間仕切りなども存在している。南側には11 m の開口部があり、横長の窓になっている。これによって、大胆な採光と、そこから見えるレマン湖やアルプス山脈の借景が可能になったが、この窓の存在についてはオーギュスト・ペレとの「窓論争」(1923年)のテーマとなり、合理性や必然性を主張したル・コルビュジエと、水平窓が室内空間にもたらす要素を否定的に捉えたペレが対立した。竣工の数年後に漆喰にひびが入ったが、ル・コルビュジエはむしろ老朽化にどう対応するかの好機と捉え、金属製の波板で覆うなどの補修を行った。

(引用:Wikipedia)

イムーブル・クラルテ meuble Clarté, Genève, 1930 スイス

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イムーブル・クラルテ (Immeuble Clarté, Genève, 1930) は、1930年から1932年にジュネーヴに建設された集合住宅で、ル・コルビュジエが最初に手がけたアパートである。エドモン・ヴァネールの要請で建てられた集合住宅で、各階には8つの部屋がある。それらは『輝く都市』で計画された特色、つまり可動する仕切り壁やビルトインの家具などを備えている。また、金属製造業者であった依頼者ヴァネールが協力をしたことから、この建物は初めてスチール・フレームが採用された。また、ガラス張りの南側には、陽射しをさえぎるための赤いブラインドが付けられていたが、ル・コルビュジエ自身は後に、この恒常的なブラインドをブリーズ・ソレイユの淵源のひとつとして挙げた。


コルビュジエ 関連書籍

ル・コルビュジエ本人の著作

『小さな家―1923』(集文社)

小さな家―1923

小さな家―1923

『建築をめざして』(SD選書)

建築をめざして (SD選書 21)

建築をめざして (SD選書 21)

『伽藍が白かったとき』 (岩波文庫)

伽藍が白かったとき (岩波文庫)

伽藍が白かったとき (岩波文庫)

『輝ける都市』(河出書房新社)

輝ける都市

輝ける都市

『輝く都市』(SD選書)

輝く都市 (SD選書 33)

輝く都市 (SD選書 33)

コルビュジエ以外の著者

『ル・コルビュジエを見る―20世紀最高の建築家、創造の軌跡』 (中公新書) 越後島研一 著

ル・コルビュジエを見る―20世紀最高の建築家、創造の軌跡 (中公新書)

ル・コルビュジエを見る―20世紀最高の建築家、創造の軌跡 (中公新書)

『Casa BRUTUS特別編集 最新版 建築家ル・コルビュジエの教科書。』 (マガジンハウスムック)

Casa BRUTUS特別編集 最新版 建築家ル・コルビュジエの教科書。 (マガジンハウスムック)

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『国立西洋美術館 ール・コルビュジエの無限成長美術館ー』

国立西洋美術館の成立の経緯と設計者であるル・コルビュジエの美術館についてのアイデアである「無限成長美術館」について山名善之氏のエッセイ、当時と現在の写真、ル・コルビュジエの設計図、竣工時の記事で構成。

『ル・コルビュジエの勇気ある住宅』(とんぼの本) 安藤忠雄 著

ル・コルビュジエの勇気ある住宅 (とんぼの本)

ル・コルビュジエの勇気ある住宅 (とんぼの本)

『もっと知りたいル・コルビュジエ―生涯と作品』 (アート・ビギナーズ・コレクション) 林美佐 著

『ル・コルビュジエ読本』(ADAエディタトーキョー)近代建築の巨人19人による考察

ル・コルビュジエ読本

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