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【書評】第156回直木賞候補作!『また、桜の国で』 須賀しのぶ著 レビュー・あらすじ!

更新:2017年1月3日
著者:須賀しのぶ 『また、桜の国で』 出版:祥伝社 第156回直木三十五賞候補作品! 感想・レビュー・あらすじ

第二次大戦直前から終戦に向かうまでの欧州・ポーランドを舞台に、当時の欧州情勢と、それに対し日本がどう関わってきたのか?という史実をベースに、ポーランドに赴任した若き外交官、棚倉慎(まこと)の目を通し、戦火で生きる人々の苦悩と希望を鮮明に描き出し、国とは何か?アイデンティティーとは何か?を問う、圧倒的な世界観の作品となった。



また、桜の国で

ISBN:4396635087

あらすじ・書評

日露戦争直後に植物研究と教員を兼ねて来日したロシア人の父セルゲイと、日本人の母の間に生まれた棚倉慎(たなくらまこと)。

スラブ系の父の血を色濃く受け継いだ慎は、当時の日本ではまだ珍しい白人として好奇の目にさらされ、疎外感を抱きながら成長していく。

大正9年(1920年)九歳になった慎は、あるポーランド人の子供と運命的な出会いを果たす。

第一次大戦でソビエトとの戦争に敗れ、シベリアで迫害を受けていたポーランド人の孤児達を日本が積極的に受け入れていた。

孤児達のポーランド帰国船出発の3日前、東京の保護施設から脱走してきたカミルと名乗る少年が偶然にも自宅の庭影に隠れており、慎は一歳上のカミルを匿い、ある秘密を打ち明けられる。

このほんの僅かの時間の出会いが、慎のポーランドへの想いを強くすると共に、その後の慎の人生をも変転させることになる。


長じて、外交官となった慎は、再び不穏な空気が充満しだした欧州の中でも親日国であるポーランドへ日本大使館書記生として赴任する。

周囲を強豪国に囲まれたポーランド国民は、既に何度も周辺国に占領、分割をされ、自国が世界地図から度々消滅するという苦い屈辱の記憶を持っている。

慎がポーランド・ワルシャワに赴任した頃には、ナチスドイツとソビエトが再びポーランド領を虎視眈々と狙っており、日本大使を始め、先輩外交官と共にポーランドの独立を守るために奔走する。

当事者国や関係国と戦争回避のための折衝をしながら、元シベリア孤児が、かつての日本への恩義を忘れず祖国と日本との交流を深めることを目的に結成した「極東青年会」という慎とほぼ同年代のメンバーとの親交を深め、慎のポーランドへの想いは、より強くなっていく。

また相前後して、ユダヤ系ポーランド人のヤン、アメリカ人ジャーナリストでドイツ、ポーランドを行き来するレイとの出会い、慎は自身の定まらぬアイデンティティーをより深く考えさせられることになる。

その後は史実の通り、大使や大使館員の奔走虚しくポーランドはドイツ軍の侵攻を受け、ユダヤ人の迫害、レジスタンスから、一般のポーランド人にも弾圧、攻撃の手は激しくなっていく。



評価

まず、この作品は、当時の平沼騏一郎内閣が「欧州状勢、複雑怪奇なり」という有名な言葉を残し退陣を余儀なくされた程、敵味方が入れ替わり、周辺強国に再び蹂躙され翻弄されるポーランドとワルシャワの人々の様を史実をベースに鮮明に描いており、日本では余り知られていない当時の欧州情勢、ポーランド状勢を知る意味でも、一流の歴史本とも言える。

著者の須賀しのぶ氏は、大学時代に「ナチスドイツ」の研究をされており、その研究から史実を克明に追いながら、魅力溢れるそれぞれの登場人物を描写し、戦争という悲劇ながらも青春群像劇として描き切った筆致には、その世界観の大きさと共に圧倒されるものがある。

国家とは何か?民族とは何か?アイデンティティーとは何か?戦争とは?平和とは?

様々な経験、考え抜き、悩み抜いた末に、一人の人間として、慎はどういう行動を取るのか?

世界的に閉塞感が漂い、排斥、対立、不寛容という言葉が日増しに多く使われ出した今こそ、読みたい作品であり、なるほど直木賞候補作に相応しい作品に仕上がった。

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【建築】ル・コルビュジエ 国立西洋美術館世界遺産決定!建築作品画像!コルビュジエとは?その理念と関連書籍!

最終更新:2016年10月23日
東京・上野のル・コルビュジエが設計した「国立西洋美術館」の世界遺産登録が決まり、日本の世界遺産は20件目となりました。コルビュジエの略歴と今回世界遺産となる17建築中12作品の画像と解説、関連本・書籍をご紹介します!

ル・コルビュジエは1887年スイスに生まれ、フランク・ロイド・ライト、ミース・ファン・デル・ローエと共に「近代建築の三大巨匠」として、モダニズム建築の確立、それに伴う都市計画にも携わり、その後のポストモダン建築・現代建築家にも繋がる大きな功績を残しました。

また、コルビュジエは家具のデザイン、雑誌編集者、詩人、画家、彫刻家としても活躍し、溢れる才能を遺憾なく発揮した人物でもあります。

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【目次】

  • ル・コルビュジエとは?~その足跡と哲学
  • ル・コルビュジエ 世界遺産登録決定17建築作品中12作品紹介
    • 国立西洋美術館 Musée National des Beaux-Arts de l'Occident, Taito-Ku, Tokyo, 1955
    • ラロッシュ=ジャンヌレ邸 Villa Jeanneret-Perret 1923
    • カップ・マルタンの休暇小屋 Cabanon de Le Corbusier, Roquebrune-Cap-Martin 1952
    • サヴォア邸 Villa Savoye et loge du jardinier, Poissy, 1928
    • ペサックの集合住宅 Cité Frugès, Pessac, 1924
    • ロンシャンの礼拝堂 Chapelle Notre-Dame-du-Haut, Ronchamp, 1950
    • ラ・トゥーレットの修道院 Couvent Sainte-Marie-de-la-Tourette, Eveux, 1953
    • マルセイユのユニテ・ダビタシオン Unité d'habitation, Marseille, 1945
    • チャンディーガル インド
      • 議事堂
      • 裁判所
    • レマン湖畔の小さな家 Petite villa au bord du lac Léman, Corseaux, 1923 スイス
    • イムーブル・クラルテ meuble Clarté, Genève, 1930 スイス
  • コルビュジエ 関連書籍
    • ル・コルビュジエ本人の著作
      • 『小さな家―1923』(集文社)
      • 『建築をめざして』(SD選書)
      • 『伽藍が白かったとき』 (岩波文庫)
      • 『輝ける都市』(河出書房新社)
      • 『輝く都市』(SD選書)
    • コルビュジエ以外の著者
      • 『ル・コルビュジエを見る―20世紀最高の建築家、創造の軌跡』 (中公新書) 越後島研一 著
      • 『Casa BRUTUS特別編集 最新版 建築家ル・コルビュジエの教科書。』 (マガジンハウスムック)
      • 『国立西洋美術館 ール・コルビュジエの無限成長美術館ー』
      • 『ル・コルビュジエの勇気ある住宅』(とんぼの本) 安藤忠雄 著
      • 『もっと知りたいル・コルビュジエ―生涯と作品』 (アート・ビギナーズ・コレクション) 林美佐 著
      • 『ル・コルビュジエ読本』(ADAエディタトーキョー)近代建築の巨人19人による考察

ル・コルビュジエとは?~その足跡と哲学

本名:シャルル=エドゥアール・ジャンヌレ=グリ

スイスの時計文字盤職人の家庭に産まれたコルビュジエ。

家業を継ぐために装飾美術学校で彫刻と彫金を学ぶものの、コルビュジエの才を見出した校長の進言により、建築の世界へ転身。

1908年パリで鉄筋コンクリート建築のパイオニア、オーギュスト・ペレ事務所へ。1910年にドイツ工作連盟の中心人物であったペーター・ベーレンスの事務所にそれぞれ短期間、籍を置き、専門的な高等教育を受けずに、実学として建築センスと技術を磨く。

こののち、コルビュジエはイタリア、ギリシャ、トルコ、東欧を渡り歩き、スイス、ラ・ショー=ド=フォンの美術学校で講師をする傍ら、1914年、鉄筋コンクリートの建築工法「ドミノシステム」を発表。

スイスからフランスへ居を移したコルビュジエは1920年、詩人、画家の友人らと共に『レスプリヌーヴォー』を創刊。この頃にペンネームとして、ル・コルビュジエを名乗る。

自らの雑誌連載から書籍化した『建築を目指して』を上梓し、本作文中の「住宅は住むための機械である」という言葉は、コルビュジエの建築思想の根幹を成し、多くの若き建築家達にも影響を与えた。

1925年のパリ万博では、装飾をメインにしたアールデコ建築のパビリオンが立ち並ぶ中、無機質でシンプルな「レスプリヌーヴォー館」を設計し、コルビュジエらしさを世界に体現。

その後、都市計画にも携わり「輝く都市」等、旧来の密集した低層住宅街ではなく、超高層ビルの周囲に緑地を作る計画案を発表し、実現はしなかったものの、その合理的な都市計画は、現代に息づいている。

1928年にはCIAM(近代建築国際会議)の中心メンバーとして、世界に名を馳せ「近代建築五原則」(ピロティ、屋上庭園、自由な平面、水平連続窓、自由な立面)を提唱する等、鉄筋コンクリート工法ならではの理論に基づいた作品を多く設計し、一段と脚光を浴びた。

彼が居を構えたフランスにも、徐々に第二次大戦の暗い影が忍び寄り、ドイツに協力的なコルビュジエに対し、長らく苦楽を共にしてきたピエール・ジャンヌレはレジスタンスに参加し、袂を分かつ。

大戦後は、持論のドミノシステムの実践、各国主要建築物の設計、インド新興都市の都市計画等、精力的に活動し、戦後復興と共に多くの作品を世に送り出した。盟友ジャンヌレとも戦後共同製作に関わる。

晩年には「ロンシャンの礼拝堂」「ラ・トゥーレ修道院」カトリック教会の設計にも携わり、日本の国立西洋美術館は、この頃に基本設計されている。

1965年、南仏、カップ・マルタンで海水浴中に死去。享年78歳。

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ル・コルビュジエ 世界遺産登録決定17建築作品中12作品紹介

国立西洋美術館 Musée National des Beaux-Arts de l'Occident, Taito-Ku, Tokyo, 1955

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(外観・正面)

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(外観・正面)

国立西洋美術館は印象派など19世紀から20世紀前半の絵画・彫刻を中心とする松方コレクションを基として、1959年(昭和34年)に設立された。実業家松方幸次郎は20世紀初めにフランスで多くの美術品を収集したが、コレクションは第二次世界大戦後、フランス政府により敵国資産として差し押さえられていた。松方コレクションが日本に返還(一部名画は未返還)される際の条件として、国立西洋美術館が建設されることになった。
本館の設計はル・コルビュジエによるが、彼の弟子である前川國男・坂倉準三・吉阪隆正が実施設計・監理に協力し完成した。なお新館は前川國男(前川國男建築設計事務所)が設計した。
本館は、1998年(平成10年)に旧建設省による公共建築百選に選定。2003年にはDOCOMOMO JAPAN選定 日本におけるモダン・ムーブメントの建築に選定され、2007年(平成19年)には「国立西洋美術館本館」として国の重要文化財に指定された。また、前庭・園地は、2009年(平成21年)に「国立西洋美術館園地」として国の登録記念物(名勝地関係)に登録されている。
現在は松方コレクションに加えてルネサンス期より20世紀初頭までの西洋絵画・彫刻作品の購入を進め、常設展示している。なかでも西洋のオールド・マスター(18世紀以前の画家)たちの作品を見ることができる美術館として、日本有数の存在である。「西美(せいび)」の略称で呼ばれることもある。

(引用:Wikipedia)

ラロッシュ=ジャンヌレ邸 Villa Jeanneret-Perret 1923

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(南西外観)
Maisons La Roche-Jeanneret
(内観)

ジャンヌレ=ペレ邸(ジャンヌレ=ペレてい、Villa Jeanneret-Perret)またはジャンヌレ邸(ジャンヌレてい、Villa Jeanneret)は、ル・コルビュジエが独立した建築家として最初に手がけた作品である。その外観から「白い家」(la Maison blanche) とも呼ばれるこの邸宅は、彼の出生地であるラ・ショー=ド=フォンに1912年に建てられたもので、元々は両親のために建てられたものであった[1]。
私邸として使われ続けたが、2005年に一般公開され、その後、フランスの世界遺産暫定リスト記載物件であり、6か国での共同推薦が行われた「ル・コルビュジエの建築作品 - 近代建築運動への顕著な貢献 -」の構成資産にも含められた。

(引用:Wikipedia)

カップ・マルタンの休暇小屋 Cabanon de Le Corbusier, Roquebrune-Cap-Martin 1952

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(外観)

Le Corbusier /// Le Petit Cabanon /// Roquebrune-Cap-Martin, France /// 1949-1952
(内観)

コルビュジエが夫人のために、南フランスカップ=マルタンの海辺に1952年に建築され、晩年を過ごした自身の居住用の邸宅。
モダニズム建築の旗手として、多くのコンクリート建築に関わったコルビュジエ作品とは思えない、丸太組の小さな家で、著書『小さな家』にもある快適な生活のための必要最小限のスペースという、建築の大家になる前の拘りを体現。

サヴォア邸 Villa Savoye et loge du jardinier, Poissy, 1928

サヴォア邸
(外観)
サヴォア邸内部02
(内観)

サヴォア邸では、ピロティ、屋上庭園、自由な平面、独立骨組みによる水平連続窓、自由な立面からなる近代建築の五原則のすべてが、高い完成度で実現されている。平面の中央には緩やかなスロープが設けられ、1階と2階を連続的に繋いでシークエンスを形成している。もとは別荘としての一般住宅であった。
サヴォア邸はモダニズム以前の装飾的で重厚な西洋的伝統建築とは大きく異なり、空間を大胆に使ったことで、当時の建築家たちに大きな衝撃を与えた。ドミノクラブと柱とスラブで支えており、梁は存在しない。ピロティを使うことにより、居住部分がまるで空中に浮かんでいるかのような印象を与え、水平連続窓はたっぷりと光を取り込むことで室内を明るくし透明感を与える。水平連続窓は室内を明るくするだけでなく、時間とともに移り変わる日光の色が室内に映えるようにも設計されている。また、素材には、当時では新しい素材であった鉄筋コンクリートを使用している。
屋上庭園は外から中が見えないように設計されており、プライバシーが確保されるように設計されている。また、バスルームや螺旋階段など、ところどころで曲線が使われており、ゆったりとした印象を与える。建物全体には灰色、白、黒、青、橙などの色が使われ、絶妙な色合いになっている。

(引用:Wikipedia)

ペサックの集合住宅 Cité Frugès, Pessac, 1924

Maison type zig-zag [1924]- cité Frugès (Pessac)

ペサックの集合住宅 (Cité Frugès, Pessac, 1924) は、ボルドー近郊のペサックに実現した集合住宅である。シテ・フリュジェ (Cité Frugès) やフリュジェ近代街区 (Quartiers Modernes Frugès) などとも呼ばれる。1924年に、製糖工場の経営者であり、ル・コルビュジエの著作『建築をめざして』に共感していたアンリ・フリュジェの要請で建設された。フリュジェは工場労働者向けの住宅を多く建てることを望み、ル・コルビュジエはその建設に当たってシトロアン住宅の理念などにも通底していたテイラー主義的様式を適用した。箱型住宅は、側面上部に突き出た階段がアクセントとなっている。それは幾何学的デザインに人の動きを暗示する要素を加えて外観の変化を生み出そうとする試みであり、ル・コルビュジエの初期の構想にしばしば見られるものである。ル・コルビュジエはスケッチなどに箱型住宅が並ぶ都市景観を描くことがあったが、ペサックの集合住宅はそれを実現させた稀有な例である。もっとも、ペサックには当初135戸が建設される予定だったが、実際には46戸にとどまった。景観に対する保守的な考えを持つ人々の干渉があったことや、現地の業者を起用しないことによる摩擦などによって、水道がなかなか整備されないなどのトラブルがあったのである。また、ル・コルビュジエのこだわりによって建設費も大きく跳ね上がり、労働者住宅としては不適切な入居費になるなどして、実際に労働者が住む住宅街になるのには、賃料について配慮したルシュール法(1929年)の成立を待つ必要があった。
人が実際に住むようになると、住民たちによってボルドー一帯に特有の屋根などを付け加えようとする動きも多年にわたって続いたが、現在は当初の姿に復元されている。2009年の推薦時には「規格住宅」に分類されていた。

(引用:Wikipedia)

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